辛亥革命(1911年)は、清朝を打倒し中華民国を建国した革命である。1911年10月10日の武昌蜂起を契機に各省が独立を宣言し、翌1912年1月1日に孫文が臨時大総統に就任して中華民国が成立した。
しかし革命政府の実力は不十分で、北洋軍閥を率いる袁世凱が清帝退位と引き換えに臨時大総統の座を孫文から譲り受けた。袁世凱はその後独裁を強め、宋教仁暗殺、帝政復活へと進んだが、蔡鍔らの護国戦争により帝政は挫折した。本図は辛亥革命をめぐる革命派と清朝側の主要人物8名の関係を示す。
登場人物一覧
孫文
中国革命の父。ハワイで教育を受けた医師で、1905年に中国同盟会を結成し三民主義を掲げた。1912年1月1日、南京で中華民国建国を宣言し臨時大総統に就任。しかし実力基盤が弱く、清帝退位を条件に臨時大総統の座を袁世凱に譲った。
黄興
華興会の会長で、1905年に孫文の中国同盟会に合流し庶務部長となった。辛亥革命の軍事指導者として武漢で革命軍を指揮し、南京臨時政府では陸軍総長兼参謀長に就任した。孫文とは同盟会の両輪として協力したが、党旗をめぐる対立など意見の相違もあった。
宋教仁
黄興とともに華興会を創設し、1905年に同盟会に参加。辛亥革命後は南京臨時政府の法制院総裁を務めた。1912年に同盟会を国民党に改組し事実上の党首として活動。政党内閣制で袁世凱を制約しようとしたが、1913年3月20日に上海駅で暗殺された。享年30歳。
黎元洪
湖北省出身の軍人。1911年10月10日の武昌蜂起後、革命党人に推挙されて湖北都督に就任した。自らは起義に参加していなかったが、知名度と軍歴を買われた。中華民国成立後は副大総統となり、のちに二度大総統を務めた。
蔡鍔
清末民初の軍人。1911年10月に武昌蜂起に呼応して雲南省で挙兵し、雲南都督に就任した。1915年に袁世凱の帝政復活に反対し、雲南で護国軍を組織して護国戦争を起こした。2万の護国軍で8万の北京政府軍を破り袁の帝政を挫折させたが、結核のため1916年に福岡で客死。享年33歳。
袁世凱
北洋軍閥の指導者。辛亥革命勃発後、清朝に起用され内閣総理大臣に就任。革命派と清朝の間で交渉を行い、清帝退位と引き換えに孫文から臨時大総統の座を譲り受けた。その後独裁を強め、1913年に宋教仁暗殺に関与したとされ、1915年には帝政復活を図ったが護国戦争により挫折。1916年に死去。
宣統帝(溥儀)
清朝最後の皇帝。1908年、わずか2歳で即位。辛亥革命後、袁世凱の圧力により隆裕太后が代理で退位詔書を発布し、1912年2月12日に正式に退位した。268年続いた清朝の統治が終焉した。
隆裕太后
光緒帝の皇后で、宣統帝(溥儀)即位後に皇太后として垂簾聴政を行った。辛亥革命後、摂政王載灃の辞任により清朝の事実上の最高権力者となった。袁世凱と北洋軍の圧力を受け、1912年2月12日に宣統帝の名で退位詔書を発布し清朝を終焉させた。失意のうちに翌1913年2月に死去。享年46歳。
関係性一覧
- 孫文 →同盟会の両輪 →黄興孫文 は 黄興 に対して「同盟会の両輪」の関係です。
- 孫文 →同盟会→国民党の同志 →宋教仁孫文 は 宋教仁 に対して「同盟会→国民党の同志」の関係です。
- 黄興 →華興会からの盟友 →宋教仁黄興 は 宋教仁 に対して「華興会からの盟友」の関係です。
- 孫文 →臨時大総統を譲渡 →袁世凱孫文 は 袁世凱 に対して「臨時大総統を譲渡」の関係です。
- 孫文 →第二革命で武装蜂起 →袁世凱孫文 は 袁世凱 に対して「第二革命で武装蜂起」の関係です。
- 袁世凱 →暗殺を指示(通説) →宋教仁袁世凱 は 宋教仁 に対して「暗殺を指示(通説)」の関係です。
- 袁世凱 →退位を迫る →隆裕太后袁世凱 は 隆裕太后 に対して「退位を迫る」の関係です。
- 隆裕太后 →皇太后(代理で退位詔書発布) →宣統帝(溥儀)隆裕太后 は 宣統帝(溥儀) に対して「皇太后(代理で退位詔書発布)」の関係です。
- 袁世凱 →清朝内閣総理大臣 →宣統帝(溥儀)袁世凱 は 宣統帝(溥儀) に対して「清朝内閣総理大臣」の関係です。
- 孫文 →大総統→副大総統 →黎元洪孫文 は 黎元洪 に対して「大総統→副大総統」の関係です。
- 黎元洪 →武漢での革命協力 →黄興黎元洪 は 黄興 に対して「武漢での革命協力」の関係です。
- 蔡鍔 →護国戦争で討伐 →袁世凱蔡鍔 は 袁世凱 に対して「護国戦争で討伐」の関係です。
- 蔡鍔 →共和制擁護の同志 →孫文蔡鍔 は 孫文 に対して「共和制擁護の同志」の関係です。





