関ヶ原の戦い(1600年)は、慶長5年9月15日に美濃国不破郡関ヶ原で行われた天下分け目の合戦です。
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康率いる東軍と、五奉行の一人石田三成を中心とする西軍が激突。戦いの半ばに小早川秀秋が西軍から東軍に寝返ったことで西軍は総崩れとなり、東軍が勝利しました。この勝利により徳川家康は天下を掌握し、江戸幕府開府への道を切り開きました。
登場人物一覧
徳川家康
豊臣政権の五大老筆頭。東軍の総大将として関ヶ原の戦いを指揮した。豊臣秀吉の死後、「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言により政権の実権を掌握。戦前から多くの西軍大名に内通し、小早川秀秋の寝返りなどの調略を進めて勝利を収めた。この勝利により天下を掌握し、1603年に江戸幕府を開いた。
福島正則
豊臣秀吉子飼いの武断派七将の筆頭。石田三成との対立から東軍に参加した。石田三成挙兵の報を受けた小山評定では、諸将に先んじて西軍との対決を主張し「残してきた妻子を犠牲にしても石田三成を討伐する」と発言。関ヶ原の戦いでは東軍の先陣として西軍主力の宇喜多秀家隊と激戦を繰り広げた。
黒田長政
黒田官兵衛の嫡男で武断派七将のひとり。徳川家康の養女・栄姫を娶り、徳川派の筆頭として活躍した。父譲りの調略の才を発揮し、吉川広家との書状のやり取りで毛利勢の不参戦を約定させ、さらに小早川秀秋の東軍への寝返りを実現させた。関ヶ原での東軍勝利に最も大きく貢献した武将のひとり。
本多忠勝
徳川四天王のひとり。生涯57度の合戦に参加しながら一度もかすり傷すら負わなかったとされる猛将。関ヶ原の戦いでは井伊直政とともに東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在として活躍した。少数の兵力で約90の首級を挙げる武功を立てた。
井伊直政
徳川四天王のひとりで「井伊の赤鬼」と恐れられた。関ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに東軍の軍監を務めた。先陣の福島正則より先に松平忠吉とともに敵陣に突入して開戦の火蓋を切った。戦闘中に島津軍の銃弾を受けて負傷し、戦後は毛利輝元との講和交渉役も務めたが、この傷が元で1602年に死去した。
石田三成
豊臣政権の五奉行のひとりで、西軍の実質的な指揮者。行政・外交・検地などに卓越した能力を発揮し、豊臣政権の中枢を担った。秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が政権を掌握していく状況に危機感を抱き、反家康派を結集して挙兵した。しかし武断派との対立や小早川秀秋の裏切りにより敗北し、捕縛されて処刑された。
毛利輝元
豊臣政権の五大老のひとりで、西軍の総大将に担がれた。大坂城に入城し豊臣秀頼を庇護する立場を鮮明にしたが、自身は関ヶ原の戦場には出陣しなかった。一門の吉川広家が東軍に内通し、毛利勢の本戦不参加を条件に所領安堵を約束していたため、南宮山の毛利勢は動けず傍観に終わった。戦後、領地は大幅に削減された。
大谷吉継
石田三成の親友として深く信頼された武将。三成が家康を討つ計画を打ち明けた際、人望のなさを指摘して何度も説得を試みたが、最後には力を貸すことを決めた。病を患い覆面をつけ輿にかつがれて参戦した。小早川秀秋の裏切りを予測して三成と秀秋の間に布陣し奮戦したが、裏切りにより力尽き「敵に首を渡すな」と言い残して自刃した。
宇喜多秀家
豊臣政権の五大老のひとりで、最年少27歳で五大老に就任。秀吉の養女・豪姫を妻とし、豊臣一門としての扱いを受けた。関ヶ原の戦いでは西軍主力として1万7千の兵を率い、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。小早川秀秋の裏切りで西軍が崩壊した後、薩摩に落ち延び、最終的に八丈島へ流罪となり、83歳まで約50年間を島で過ごした。
島津義弘
薩摩・大隅・日向を領する島津家の武将で、軍事面の中心的存在。関ヶ原の戦いにはわずか1500の兵で西軍として参戦した。西軍が総崩れになった際、敵中を正面突破して退却する「島津の退き口」を敢行。島津豊久や長寿院盛淳らが「捨て奸」という犠牲的戦法で大将を守り、義弘は薩摩への帰還に成功した。戦後2年の交渉の末、島津家の領土は安堵された。
小早川秀秋
北政所(ねね)の甥で、豊臣秀吉の養子となった。当初は西軍に属していたが、石田三成が秀秋の減封のきっかけを作った一方、徳川家康が復領と加増を叶えてくれたことから東軍への寝返りを決断。黒田長政・浅野幸長からの調略も受け、戦いの最中に西軍の大谷吉継隊の後方から攻撃を仕掛けた。この裏切りが西軍崩壊の決定打となった。関ヶ原の戦いから2年後、21歳の若さで死去。
真田昌幸
「表裏比興の者」と称される策略家。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、上田城に籠城して中山道を進む徳川秀忠軍を足止めする役割を果たした。長男・信幸は東軍、自身と次男・信繁(幸村)は西軍に分かれる「犬伏の別れ」は有名。秀忠軍を上田城におびき寄せ、鉄砲隊の集中砲火で撃退し、5日間の足止めに成功。秀忠は関ヶ原本戦に遅参した。戦後、高野山麓の九度山に配流された。
上杉景勝
豊臣政権の五大老のひとり。会津120万石の大名。秀吉死後に本国の会津に戻り、神指城の築城を開始したことが家康の疑念を招いた。家老・直江兼続が出した「直江状」が関ヶ原の戦いのきっかけとなる会津征伐を家康に決意させた。関ヶ原の戦場には直接参戦せず、東北方面で最上義光と戦った。戦後、会津120万石から米沢30万石へ減封された。
直江兼続
上杉景勝の家老。徳川家康からの上洛要請に対し、家康への反論を記した「直江状」を送ったことで知られる。この書状が家康の会津征伐の決意を促し、関ヶ原の戦いの遠因となった。戦後は領地が4分の1に減った中でも全ての家臣を連れて米沢に移ることを決め、新田開発などの政策で米沢藩の基礎を築いた。
関係性一覧
- 徳川家康 →東西対立 →石田三成徳川家康 は 石田三成 に対して「東西対立」の関係です。
- 徳川家康 →東軍総大将 →福島正則徳川家康 は 福島正則 に対して「東軍総大将」の関係です。
- 徳川家康 →養女・栄姫を嫁がせる →黒田長政徳川家康 は 黒田長政 に対して「養女・栄姫を嫁がせる」の関係です。
- 徳川家康 →主君(四天王) →本多忠勝徳川家康 は 本多忠勝 に対して「主君(四天王)」の関係です。
- 徳川家康 →主君(四天王) →井伊直政徳川家康 は 井伊直政 に対して「主君(四天王)」の関係です。
- 徳川家康 →復領・加増で懐柔 →小早川秀秋徳川家康 は 小早川秀秋 に対して「復領・加増で懐柔」の関係です。
- 石田三成 →西軍総大将を要請 →毛利輝元石田三成 は 毛利輝元 に対して「西軍総大将を要請」の関係です。
- 石田三成 →親友・盟友 →大谷吉継石田三成 は 大谷吉継 に対して「親友・盟友」の関係です。
- 石田三成 →西軍の中核 →宇喜多秀家石田三成 は 宇喜多秀家 に対して「西軍の中核」の関係です。
- 福島正則 →武断派vs文治派の対立 →石田三成福島正則 は 石田三成 に対して「武断派vs文治派の対立」の関係です。
- 福島正則 →関ヶ原で激戦 →宇喜多秀家福島正則 は 宇喜多秀家 に対して「関ヶ原で激戦」の関係です。
- 黒田長政 →寝返りを調略 →小早川秀秋黒田長政 は 小早川秀秋 に対して「寝返りを調略」の関係です。
- 小早川秀秋 →裏切り・後方から攻撃 →大谷吉継小早川秀秋 は 大谷吉継 に対して「裏切り・後方から攻撃」の関係です。
- 小早川秀秋 →減封の恨み →石田三成小早川秀秋 は 石田三成 に対して「減封の恨み」の関係です。
- 井伊直政 →追撃中に銃撃を受ける →島津義弘井伊直政 は 島津義弘 に対して「追撃中に銃撃を受ける」の関係です。
- 島津義弘 →西軍として参戦 →石田三成島津義弘 は 石田三成 に対して「西軍として参戦」の関係です。
- 本多忠勝 →共に東軍の軍監 →井伊直政本多忠勝 は 井伊直政 に対して「共に東軍の軍監」の関係です。
- 真田昌幸 →秀忠軍を上田城で足止め →徳川家康真田昌幸 は 徳川家康 に対して「秀忠軍を上田城で足止め」の関係です。
- 直江兼続 →家老(主従関係) →上杉景勝直江兼続 は 上杉景勝 に対して「家老(主従関係)」の関係です。
- 直江兼続 →直江状で挑発 →徳川家康直江兼続 は 徳川家康 に対して「直江状で挑発」の関係です。
- 上杉景勝 →西軍として連携 →石田三成上杉景勝 は 石田三成 に対して「西軍として連携」の関係です。
- 井伊直政 →戦後の講和交渉 →毛利輝元井伊直政 は 毛利輝元 に対して「戦後の講和交渉」の関係です。
- 黒田長政 →吉川広家を通じ不参戦を約定 →毛利輝元黒田長政 は 毛利輝元 に対して「吉川広家を通じ不参戦を約定」の関係です。





